1.夏の過ごしやすさはどうでしたか? (評価平均 4.75) |
「木の国の家」は住宅の良好な温熱環境の確保にパッシブな方法でトライしている。外断熱・通気工法の屋根と壁、内部に蓄熱体としての土塗り壁、大きな開口、深い軒先、風通しの良いプランニングなどの総合で紀南の夏の暑さに
対応した。いずれもこの地の先人が私たちに残してくれた知恵である。平均評価は4.75と高得点を得た。
Hさんはエアコンそのものを置していない、TさんとKさんはたまに使う程度でほとんど使用せず、Eさんだけが6台の内の3台を頻繁に使用したという回答であった。そのEさんも「早朝の暑さが以前の家に比べてとても違っていた(涼しかった)」と印象を述べている。 |
評価平均得点表  |
これは、オープンなプランニングによる空気量の確保、吹き抜けを通しての空気の自由な対流により早朝の太陽光の影響をすぐには受けなかったこと。そして、土塗り壁が蓄熱体としての役目を果たしていたことの相乗効果だと考えられる。
2.梅雨時期の過ごしやすさはどうでしたか? (評価平均 5.00)

4軒全家族が満点の評価を与えた。しかも、どの家族からもエアコンの使用は報告されていない。機械設備の助けを借りず「快適だった」「過ごしやすかった」の評価は特筆に値する。あらわしの構造材、杉厚板、土塗り壁などの素材が調湿体として期待を上回る効果を上げた証だといえる。
3.冬の過ごしやすさはどうでしたか? (評価平均 4.00)

この項目は評価が分かれた。2の評価に止まったHさんのお宅には1階の食堂に小型のハロゲンヒーターが置かれているばかりで他に熱源はいっさい用意されていない。特に長野地区は紀南地方の山間部に位置し冬季の平均気温は田辺市内を下回る。この状況でロフトを含め2層分の室内高と空気量を持つ2階寝室は、空気が自然に対流を始めさすがに冬場は寒さが厳しい。しかしこれは暖房エネルギーを最小限に抑えたいとする生活スタイルの問題で、断熱・気密の性能に由来する問題だとは考えにくい。
他の3軒は石油又はガスのファンヒーターを用意する。いずれの家庭もメインの居室に大空間を擁する。Eさんのみエアコンを補助に使うがKさんとTさんはファンヒーターのみで冬場を乗り切ってしまう。EさんとTさんのお宅でははさらにその大空間に吹き抜けも合わせ持つが2階も吹き抜けを介して充分暖まり、2階個室用の暖房器具は特に必要ないという。Hさん以外の3人の評価平均は4.67だ。「木の国の家」は高気密・高断熱の仕様とはしていないが充分な性能を持つとの評価をいただいたのだと判断する。特に杉厚板を使用した床に対する評価は高い。Tさんは「畳の間より板の間の方が暖かかった」とコメントした。杉厚板の保温力は大きな戦力となる。ただし、熱源には大空間や吹き抜けを擁することからエアコンではない大きめのカロリーを発生する暖房器具が必要なようだ。最近の設計例では薪ストーブを設置した。野焼きが禁止されてから道路工事、宅地開発、庭の手入れ時などに発生する雑木の始末に困っている例が見られ薪の入手は想像するほど困難ではない。又、蒔きの使用を通じて近くの雑木林が里山としての繋がりを人間社会と持っていた頃の関係がもう一度蘇らないものだろうかとも思う。
4.天井のない木の見えた構造、板壁や土塗り壁の内装は住んでみるとどんな感じですか? (評価平均 5.00)

真っ直ぐな天井、綺麗なクロス貼りの内装に慣れた目には板壁や、土塗り壁、勾配天井などは特殊に映るであろうと推察していたが誰一人マイナスイメージを抱いていない。「木の色が落ち着いて良くなってきた」・・・木材の変色に理解が示されている。「空間が大きく開放的」「天井がなく広々として気持ちが良い」・・・窮屈な小屋裏空間も好意的に捉えられている。「違和感はまるでない」・・・「木」が「木」であることが充分生かされた空間造りをする。「木」の存在感があって初めて成立する空間造りをする。そんな「木の国の家」の主張が受け入れられたと評価して良い得点である。化粧材として使用される「節あり材」に対してのクレームはない。木材の節も含めて自然素材の材質感を経年変化の様子と共に楽しんでいるようだ。
5.間仕切りの少ない開放的なプランの使い勝手はどうですか?(評価平均 4.75)

間仕切りの少ない開放的なプランは、空気量の確保、風の通り道の確保などの建築的な欲求と共に、戦後急速に普及した○LDKに代表される室内の用途による細分化に対するアンチテーゼも含む。もともと日本の伝統的な民家は非常にフレキシブルに使える大空間構成となっていた。それは日本の建築文化に深く根ざしていたし、家族のあり方にも大きな影響力を持っていた。今回の調査対象の家族で子供と同居しているのはKさんとEさんだ。両家とも子供が家族の間(居間)でのびのびと遊んでいる「家族の一体感が増したのはいいが、お客様の時に困ることがあるほど」らしい。HさんとTさんは通常2人暮らし「広々としてこころにゆとりが出来たような気がする」「小さく間仕切ったものよりよっぽど住みよい」と共に高評価、得点は4.75。好意的に受け取られている。ただ、冷暖房時の熱効率という面では不利。Kさんの家では暖房時に限って階段部分にブラインドをおろし、省エネにつとめていた。
6.傷つきやすさや、メンテナンスのしやすさはどうですか? (評価平均 3.00)

もっとも得点の低かったのがこの項目である。新建材の高耐久性、メンテナンスフリーの使い勝手に慣れ、木材や他の自然素材の有効性は理屈では理解していても感情的に整理できない。それらとつきあうノウハウも私たちの中にはしっかりとは残っていない。なにも紀南に限ったことではない全国的にそうなのだ。供給側が自然素材のネガティブな部分を今後の課題とするのと同時に消費者側もつき合い方を学ぶ必要がある。「木材の色が落ち着いてくるのと同じように傷みもそこそこは覚悟ができてきた、これも自然なことなのだと受け入れることができはじめた」と言うEさんの奥さんの言葉に救われたように思う。
暖房器具として石油やガスのファンヒーターが各家庭でエアコンに変わって大活躍したが、そのために床の杉板が過乾燥となり収縮のため目地が開き気味になった・・との話を聞いた。生活体験を積み重ね、自然素材で造る「木の国の家」にふさわしい熱源を探していきたい。
7.シックハウスやアトピー、異臭などの心配はどうですか? (評価平均 5.00)

「木の国の家」では「化学物質で室内が汚染されるのを押さえるためにより含有量の少ない合板を使用する」的な発想はしていない。時間軸を伴った検証が充分に行われていないものについては使用を差し控えている。木も土も無垢で自然なものを使う。室内に使用する新建材は内壁珪藻土塗り仕上げの下地にラスボード(石膏を厚紙にてサンドイッチにしたもの)を使用するぐらいである。同時に、天然木が元来発散している程度のホルムアルデヒドならば気にせず使用することにもしている。その結果、「木の香りが良い」「自然素材は気持ちが良い」「子供のアレルギーが若干良くなった感じがします」と満点の評価を得た。むしろ問題となるのは竣工後搬入される家具・調度品のたぐいである。せっかくの良好な住環境が引っ越しで家具が運び込まれたとたんに台無しになる・・・そんな経験を何度かした。
8.支払った価格相当の住宅だと感じますか? (評価平均 4.25)

「木の国の家」は紀南の地に通常建てられている地元大工、工務店の施工する洋風住宅に比較して約2割高の価格となる。にもかかわらずこの評価は意味深い。「納得している」「住んでみて木の家の良さをますます感じている」「とても満足している」と概ね反応は良好である。住宅の持つ性能と価格のバランスが無理なく受け止められている。
住まい手は、もちろん「木」の家に住まうことを自ら望み、実行された方々である。「夢が実現したとなれば評価も甘くなりがちだ」とみられる方もおられるだろうが、いずれの住まい手も自分の信念に賭けて、あらゆる種類の住宅の中からシビアな選択をされた結果「木の国の家」を選び取った方々だ、評価も信頼に足ると思っている。
現在の住宅は紀南に限らず、経済が最優先で住まい心地や人を取り巻く環境がその後に来る。この本末転倒を本来の形に戻したのが「木の国の家」であり、それが価格に反映されている。時を経た後の評価が楽しみである。
総 括 (総合評価 4.47)

「木の国の家」は住まいやすさの方法論を高気密・高断熱、24時間強制換気に代表されるアクティブな方向に求めず、建物の成り立ちも施工の方法も地域の先人の生き方に学び、環境共生と地元との共存をめざすパッシブな方向に求めた。その結果いただいた「総合評価 4.47」の得点は充分な合格点だと判断する。
ほんの50年前まで、私たちの近くには、200年、300年前に建てられた家がいくつも残っていた。2000年以上の長きにわたって日本人の「住まいのかたち」は大きく変わることなく続いてきたのである。それは、そこに住む「人」が自然と共にあることを受け入れ、折り合いをつけてきたからに他ならない。今も300年の耐久力を持つ木造住宅を建築することは可能だろう。しかし、そこでは現代人に充分な住環境は創れない。我々が贅沢に慣れすぎたのだ。たった50年の間に私たちの中に起こった価値観の変化をもう一度見直す時がきている。前に戻るのではない、今本当に必要なものは何かを探すのだ。私たちに必要な最小限の荷物(環境負荷)とは何なのだろう。「もったいない」は日本が世界に発信した、すばらしい、自然との折り合いの付け方の一つの方法だが、そんな、先人に学べるような知恵はもうないのだろうか。傲ることなく、共に地球に生きる仲間として、たとえ純粋な自然でなくとも、私たちの先輩たちが「里山」と「住人」の関係をうまく築いたように、私たちに築ける自然との「共生」のしかたを模索したいものだ。